わたし達の住んでいる街には
河が流れていて
それはもう河口にほど近く
広くゆっくりよどみ、臭い

河原のある地上げされたままの場所には
セイタカアワダチソウ
おいしげっていて
よくネコの死骸が転がっていたりする


岡崎京子がこのようなセリフで書き始めたのは、有名な『リバーズ・エッジ』だ。

自然は、その土地の文化そして人々を育む。そのようにいわれる。
自然のなかの一つである、川もおなじような役割をもっている。川があるかないか、その川がどのようなものかで、その土地の文化は違ってくる。

岡崎京子が描いたのは、この文章を読めばわかるように、都市化された街に流れている川だ。
その川が育てる人たちは、どのような存在であるのか?
岡崎は次のようにいう。

あらかじめ失われた子供たち。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。

先のように表現された川が象徴しているのは、欠如感が欠けている存在、そしてそうした存在ののっぺりとしているけれどもひりひりする生である。けれども、この「生」は、「充実感」という言葉の「意味」を理解することはないし、極端にいえば「死」ということが「リアリティ」を持つことはない。
近代社会にレイプされた川は、「生」を育むことはない。それがあるとしても、それはなにかしら「中身の欠けた生」だ。そしてそのような生は、岡崎のいうとおり、「決して射精しないペニス」「決して孕まない子宮」、つまりなにも産み出すことはなく、無駄に消費されるだけのものである。


 僕が生まれたまちには、川がなかった。しかし、川らしきものはあった。それは、昔ため池から水を流すために引かれた用水路のようなもので、僕が生まれた時にはすでに生活排水をながすためのドブ川と化していた。

岡崎京子が描くような川ではなかったが、彼女のいわんとすることはなんとなく理解できた。

話題転換。

わからないけれども、唐津の人たちは、松浦川をみたら帰ってきたなとおもうのではないだろうか。

福岡方面から唐津のほうへくるとき、僕は、松原経由で唐津に入る。長い松のトンネルをぬけるとすぐに、松浦川と遭遇する。

閉じられたところからいっきに開けたところにでた、あのなんともいえない開放された感覚。
これを味わうために僕は、松浦橋を使う。
その感覚にアクセントをつけているのは、いうまでもなく松浦川のあの悠々とした態度だ。
松浦川を渡るとき、そんな態度を見せるなにかしら大きな存在の懐に入っていくような感じがする。
自分のいっていることが矛盾していることはわかる。開放感と被抱擁感は、正反対のものだ。だけれども、自分の中ではそれらは矛盾することなく両立している。(と書いてみて、開放感と被抱擁感の両立というのは、なんだ「エロティシズム」(バタイユ)そのものだなと思った。すいません、独り言です。)

唐津は、松浦川に守られ、育まれてきた。この川が(そして町田川もそうだろうが)、唐津の「生」を司っている。そのように思う。


先日次の話を聞いた。川と海とが接するところにあった東校出身者の話である。

以前クジラが唐津湾にやってきたときに、授業をさぼってクジラを友達と一緒に見にゆき、ぼーっとクジラを見ていたら、先生に見つかってしまって叱られた(テヘッ)。

他愛もないけれども、「活き活き」としたエピソードだ。

その話を聞いて、僕はなんとなくそうした「情景」を「思い描く」ことはできた。けれども、彼女らの「経験」を「追体験」することはうまくできなかった。
それは、僕にそうした経験がないこと、住んできたところが違うからということでもあるだろう。しかし、正しくいうなら、僕が追体験できなかったのは、この土地が生み出し、そこの人々に植え付けるちょっとした「気持ち」であり「ふるまい」であり、いいかえれば、先に述べたような松浦川によって生み出された唐津的な「生」である。以前のエントリーの言葉を使えば、「呼吸」ということだ。

僕は、岡崎京子が描く川の「生」を感覚的に理解できるのだけれども、松浦川の「生」をうまく想像することができない。また、うまくとらまえることができない。
いいかえれば、松浦川の懐のなかで育まれる生を、都市的な川の生は、うまく理解することができない。

そして、この唐津という「厚みのある」空間のなかで、どのようにふるまうべきなのか、僕はやはりよく分からないのである。(もりやま)