唐津が出てくる小説を探せ

唐津が出てくる小説を探せ」というご下命を受けたので、真っ先に思いついたものを紹介しよう。
吉田修一「悪人」。

この小説を読んで、あまりに感動したので、この小説に出てくる場所に意味なく行ったりしていた。唐津に来たときは、唐津警察署の近所までいって、このあたりで吉田修一は警察署をみていたのだろうなぁ…などと想像した。また、呼子に行っても同じようなことを想像したりしていた。

ご下命を受けて、もう一度読み直してみたけれども、やはり「しびれる」。

とりあえず、以前書いた自分の書評をここに再録しておく。

この作品は、言葉にすれば非常に単純で常識的なことを言っているように思える。
「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」。
あたりまえのことだ。こんなことは、誰でもいえる。
けれども、そうしたことをある程度のリアリティや強度をもって描くことのできる人は少ない。この小説の秀逸のところは、当たり前のうちにあるリアリティやその深さ・深淵をきちんと提示していることにある。

「人間は、善良な側面と邪悪な側面、両方を併せもつ存在である」と、われわれが感じるのは、他者との関わりにおいてである。「良い-悪い」ということは、「具体的な対他的な関係性」のなかで生まれるものだ。
われわれは、取り結んでいる関係に従って、自分の内面を開く加減をおこなっている。簡単にいえば、われわれは対他的な関係のなかで、他者に対して見せていい部分と見せない部分を微妙に調整している。
それゆえ、対他的関係のなかで生じる人格は、多元的にならざるをえないし、関係性が多様化すればするほど、同様に人格のありかたは複雑化する。この小説が描いているように、ある人はある他人にとって悪人に見えるし、また他の他人にとっては善人であるように映る。

この小説が素晴らしいのは、多様化する関係性、それに伴う対他的パーソナリティの多重化を、ある殺人事件をフックとし、多数出てくる登場人物の視点を多様に交差させながら、描ききっていることである。そしていうまでもなく、そこのなかには人間のありとあらゆる感情が表現されている。
文章のなかで、こうした現代的なリアリティが析出されている。この小説を味わうポイントは、ここにあると思う。

この小説は、いろんな読み方ができると思う。例えば「ミステリー」として。
自分はこの小説を「恋愛小説」として読んだ。というか、読み終わって「すぐれた恋愛小説だ」と思った。
同時に、恋愛小説としてのこの小説のモチーフは、なにかに似ているとも思った。
そこで思い出したのが、フィッシュマンズの「頼りない天使」だ。

 なんて素敵な話だろう
 こんな世界の真ん中で
 ぼくらふたりぼっち

吉田修一佐藤伸治も、「ふたりぼっちの世界」がかくも儚いものでしかないということを表現しようとしている(た)と思う。

関係性が多様化し、人格が多重化すればするほど、「ホントウノジブン」をさらけだすことのできる「Only One」な関係が希求される。けれども、こうした関係性の複雑化は、「Only One」な関係を作り出す条件であるとどうじに、その関係自体を破壊するものである。それゆえ、この「Only One」な関係は、「ありそうでないもの」のように感じられる。
この「ありそうでないもの」を求めざるを得ない存在であること、そうした存在であることの空虚さや切なさ、そして、強さややさしさ。吉田修一が人のなかにみるものは、そうしたものなのだと思う。


この小説は映画化され、映画は9月に封切となる。
そうしたこととは関係なく、ぜひ一読してほしい作品であることは強く訴えておきたい。(もりやま)