極私的に唐津を考える

「まちの『強度』」について考えてみたい。
「まちの『強度』」というのは、一般に認められている言葉ではない。ぼくの造語である。
まちの強度といったとき、それは地震や台風に対する強さということを意味していない。
ここで「強度」といったとき、モノの丈夫さを言い表しているのではない。
ここでいう「強度」というのは、「深み」「奥深さ」という意味に近い。
「硬い」といったような物理的な尺度というより、「深み」「広がり」といったような空間的な尺度ととらえてほしい。
別様にいえば、「強度」とは「旨み」「味わい深い」といったような身体に染み込み、広がっていくような感覚のようなものである。

では、まちの強度=深み、旨みとはなにか?

食べ物の比喩で考えてみよう。
非常においしいと感じられたスープがあるとする。それは、インスタント・スープの味のような平たい味ではなく、さまざまな味が絶妙な塩梅で保たれ、そのおいしさを表現しようにもなかなか困難な味である。
そのようなスープを飲むとき、よほどの野暮天でないかぎり、一気に飲まないはずだ(作るほうも、そんな野暮天には飲ませたくないと思うだろう)。なにがベースとなっているのか、どんなエキスが溶け込んでいるのかを考えながら、一口一口味わいながら飲むだろう。舌に絡みつき、内腑に染み込んでくるものを、ゆっくり捉まえようとするだろう。
味わい、それがどういったものかということをわからせようと仕向ける。
旨みとはそういうものだ。そして(よほど食い続けない限り、)飽きない。

ぼくがいう、まちの強度とは、そういうことだ。
簡単にいえば、なんども味わえる。

ぼくが唐津のなかで好きなところは、「石垣」と「松原」だ。
なぜか。
石垣についていえば、それらが昔と現在を結び付けているものだからだ。市民会館の前にある江戸時代の唐津の地図を頭に叩き込んで、石垣を眺めながら、網膜に映る情報を、昔はこうだったのだろうなと勝手に脳内変換する。
石垣、いってしまえばただの大きな石が、ぼくの想像力を駆動させてくれる。
名護屋城からもってきたということを知ると、余計に萌え、想像力が広がっていく。
想像力に際限はない。毎回いかようにもイマジネートできる。
歴史を偲ぶということは、歴史的遺跡を見、その解説を読んで「へー」と思うといったような受動的なものではなく、知識とイマジネーションがダイナミックに作用するもっと積極的なものだと思う。

「松原」についていえば、あれが人工林ということにぼくは萌える。
あれが「人工的な自然である」ということに驚愕する。ぼくが松原に驚くのは、その広さということもあるが、それ以上に、日本的美学があの規模で具現化されているからだ。
よくいわれるが、日本のアートは、盆栽にしても庭園にしてもそうだが、「人工のもの」をいかに「自然」に近づかせるかということが問題なのである。虹の松原は、たしかに植林してでっかくなっただけの松林ともいえるが、人工と自然というアートの視点で見ると、巨大な芸術作品のように思えるのである。
先日松原にいった。さざなみの音が聞こえないぐらい、海風が強い日だった。浜辺で海風に顔をしかめながら海を眺めていると、トビ(だと思う)がぼくの頭上をかすめた。それを眼で追うと、トビはそのまま海風を受け気持ちよさげに海空でホバリングしていた。数十秒ぼくの上で漂ったトビは、風をうまく操りあっというまに遠く離れていった。
そのとき、ぼく自身巨大な芸術作品の一部になったような気がした。(ただし、浜辺でたわむれる蟹もいないし、ましてや恋人もいない、そうした悲しい現実にうちひしがれ、泣きぬれて砂とたわむれるおっさんひとり、というのが第三者的光景なのだが。)

石垣にしても松原にしても、それが残っていることは、ある意味「奇跡」ともいえる。
ただし、「奇跡」といえるのは、そこにそれに接する人たちの「想像力」が介在してのことだ。奇跡は客観的に存在するものではなく、その事態を奇跡と感じる(思う)人間がいてこそ奇跡なのである。そこに住む人たちにとっては当たり前のことかもしれないが、すくなくともぼくにとっては、松原も石垣も奇跡的なものとして映る。
そういう意味では、まちの「強度」といった場合、先の意味に加えて、時間・歴史にたいする耐性をも意味しているということもできるだろう。
まちのなかでいまいったような偶然・奇跡を目の当たりにできること、それらはぼくにとって、最大の唐津の魅力でもあり、それが唐津の「強度」だと思うのである。

そこで個人的に思うのは、このような魅力のある地域を「安売り」してほしくないということである。いいかえると、マーケットの論理によって(他でやって成功しているから、この方法が効率的だからという理由によって)、自分たちを売ってほしくないということである。
マーケットでは「わかりやすさ」ということが重視される。あらゆるものがパッケージ化される。それによって、「どのように見て、どのように味わうのか」、そうした消費のありかたが方向づけられてしまう。わかりやすくパッケージ化すること、マーケットにおいてたしかにそれは大事だ。けれどもそこで失われてしまうのは、これまで述べてきたようなまちの「強度」であり、ぼくたちの「想像力」なのである。付け加えていえば、マーケットを意識して作られるものには、時間に対する「耐性」はない。時間がたてば、飽きられるものばかりである(そうした論理で作られるまちにやってくるのは、リピートしない「野暮天」だけになるだろう)。

「強度」というとき、なにが重要なのか。ぼくのなかにある感覚としては、強度(リピートして見たい、味わいたいと思わせるもの)とは、「一見なんでもないもの」なのだけれども、一歩入り込んでみると非常にディープな世界が広がっているものということである。
唐津にはそうしたものがたくさんあると思う。
このディープな世界とはなんなのかということを改めて自分たちが「感じ」、このディープな世界をどのようにしてより多くの人たちに見(魅)せるのか。
繰り返すがマーケット的ロジックでこの土地のことを考えてはいけないと思う。
この土地に住むなかで感じることを深めてゆき、より正確に言語化することのほうが大事だと、個人的に思う(このセンターの意見ではないことを強調しておく)。

最後にひとこと。長々となんか難しいことが書いてあるなと思われるかもしれないが、結局この文章は、これまでいろいろいわれてきたようなことが、仰々しく書かれているに過ぎず、ぼくは唐津のどういうところが好きかということを書いているに過ぎないのである。つまり、「内容はないよう」。(もりやま)