最近あったことについていろいろと書きたいことはあったのだが、書けなかった。震災のことについて何か書こうと試したのだが、なかなかまとまらず断念した。書きたいことが多方面にわたりすぎて、どうもまとまらない。実際の現場を見ていなけれども、状況が圧倒的すぎるのだ。

斉藤和義の一件があって、それについてなら書けそうだと思い、つらつらと書いてみたのだが、もうちょっと寝かしてみることにした。

そういえば、「祝女」の続きを書いていなかった。終わらせないのも気持ち悪いので、それを書いておこうと思う。前回の分はこちら
それでは、お暇なかたはどうぞ。


さて、『サラリーマンNeo』と比較することで、なんとなく『祝女』の演出の特徴を理解していただけたでしょうか。もう少しこの点を明らかにするために、『祝女』と他の番組との比較を続けてみましょう。

ところで、『祝女』のコメディに「ドラマティックカップル」というのがあります。僕は、はじめこれを見たとき、居心地悪くなりながらも面白いなと思いました。と同時に、これはある種「映像テロ」だなと思いましたよ(笑)。 で、なぜ自分はそのように感じるのかなと考えました。よく見ると、演出がうまくできてるんですよね。ドラマティックカップルの映像は、はじめカップル同士の主観映像が主に映されています。これって、恋愛ドラマ的な甘い映像ですよね。はじめにそう印象づけておいて、だんだんとカメラは引き始める。それによって、カップルのあり方、カップルの甘い世界が、「二人だけの世界」ではない客観的な世界に位置づけられてしまう。これは、恋愛ドラマではありえない。これは見ていて、非常に「イタい」。あのような経験のしたことある人間ならば、イタくてたまらないと思います。なぜかって、人の目を気にせずにいちゃつく所謂「バカップル」を、僕たちは直視できないじゃないですか。けど、二人でいるときはやってることは彼らと一緒なんですよね。まあ、僕たちは直視できないことを裏ではしているわけですよ。また裏を返していうと、恋愛ドラマは視聴者をそうしたところに立たせないように、そうしたことに気づかせないように映像をつくっているわけです。例えば、二人だけのロマンティックなシーンでは、背後はぼかされノイズが入らないように配慮されていますよね。これもドラマ的演出なんです。演出だから現実ではありえない。
 祝女のコメディの映像演出は、いうまでもなく明確な意図を持っておこなわれている思います。僕たちのイタいところをついてくる。やっぱり、「二人だけの世界は二人でいるから甘く幸せと感じる」わけであって、やはりそうした世界は他の人に見られたくない。だれだってああした甘い言葉を恋人にいっている(はず)と思いますが、他人が聞いてしまうと赤面してしまう。でも、これらのことはぼくらが実際にやっちゃってることなんですよね(たぶん)。「ドラマティックカップル」は、そうしたことをあえて映像化している。
 このコメディについていえば、男性はこのコメディを笑って見れない。対して女性は、笑うことができる。

 この点について、また他の番組と比較することで、深めてみたいと思います。ここで持ち出したい番組は『ロンドン・ハーツ』です。「ドラマティックカップル」を見たとき、まっさきにこの番組のことを思い出しました。『ロンドン・ハーツ』といっても昔やっていた、「ブラック・メール」とか「スティンガー」とかですけど。なぜ、この番組を思い出したかというと、映し出している内容はほとんど一緒だからです。なにが一緒なのかというと、両者とも「恋愛ルールに従っている人を笑う」という点において、同じことをやっている。
 ロンブーの淳がかつて僕らに見せていたのは、「所詮恋愛なんてルールにすぎない」ということだと思います。そしてそうしたルールに従っている人たちの滑稽さを、僕たちに見せつけていたと思います。『ロンハ―』については、当然他の見かたはできると思います。ここではそれについては論じません。いずれにせよ、淳は「こんな状況でこうしたことをすればいい」というルールを僕たちに教えていたと思います。僕は、淳がそうしたことをできるのは、恋愛というものにたいする「こんなもんじゃん」という「醒めた目線」をもっているからだと思います。淳の言動を露悪的かそうでないかと捉える分岐点は、その目線を共有できるか、できないかだと思います。この淳の醒めた目線というのは、ある意味「女性的」なものだと思います。そして、そうした視線は『祝女』と共有されているように思います。

 『ロンハー』と『祝女』の違いについてですが、これは演出の仕方が明確に違います。バラエティ番組とコメディという番組の種類の違いはありますが、視聴者への見せ方が明らかに違います。『ロンハー』のブラックメールやスティンガーは、基本「盗写的アングル」です。つまりカメラ(=視聴者)は、完全な安全圏から対象を見ている。それゆえ、視聴者に対象に巻き込まれているという意識は起きない。こうした視線は、あくまでも対象を自分とは関係のないものとしてとらえるものです。こうしたアングル、視線の違いが番組の大きな違いです。先ほど申し上げたように、「ドラマティックカップル」では、はじめにカップル同士の主観を映し、見ている者に対象であるカップルの世界へ(感情)移入するように仕向けられる。このときの演出は、よくある恋愛ドラマのそれなので、見ている人はそうしたものとして(安心して?)見ることができ、感情の移入ができます。しかし移入させられた上で、だんだん客観的世界へと連れ出される。この視線の転換が、このコメディの肝となっています。男性は、この視線の転換に耐えられない。女性は、これらの転換を楽しめることができる。もう一度「ロンハ ―」の話に戻りますが、ロンハ―はずっと客観視線です。だから、男性は安心して楽しめる。この点は、先に挙げた「Neo」と関連しますが、男性というのは対象を「自分とは関係のないもととして把握する」ことができてはじめて、対象を笑うことができる。ひとことでいえば、男性は対象を「他者化」することではじめてそれを笑うことができるということです。「Neo」のところで「デフォルメ」について話しました。そのとき、「Neo」ではデフォルメを過大におこなっていることを指摘しました。このことは、この「他者化」ということと関連しているように思います。繰り返しとなりますが、男性は、自分とは関係のないことだと思ってはじめて笑うことができるのではないか。それに対して、女性には余裕がある。冷静に自分を見ることができている。だから「ドラマティックカップル」も普通に笑うことができる。
 さて、話を戻しましょうか。『祝女』的コメディの特異性を考えてきましたが、まとめると右のような図になるでしょうか。

祝女のコメディは、これらの視線・視点を往還させている。二つの視点の間を往還させることで、普段僕たちがなにをしているのかということを認識させている。例のコメディが僕らに見せつけるのは、図にあるように、主観的視線と客観的視線を結び付けているのは、想像(妄想)上にあるドラマ的な振る舞い、ドラマ的ルールに過ぎないということだと思います。こうしたもろもろのありかたを見せつけられる。ある意味、自分自身を見るような作りにもなっている。

男は、これに耐えられないわけですね。男性は、「はまっている」自分を直視できない。ある雰囲気が満ちている空間にいるとき、男性はそこに順応してしまう。男性は、例えばロマンティックな空間のなかでは、「演じている」という意識はなく、「本気(ガチ)」でそれをおこなっている。そうした自分を客観視することは、なかなか難しい。それゆえ、男性が男性自身をパロディにするには、そこに自分が含まれていないということ、自分が安全圏にいることが必要なんですね。あえていえば、自分がまきこまれている関係性から離脱していることが不可欠なんだと思います。

それに対して、女性は、「はまっている」自分を認識しており、「あえてやっている」という「演技」が可能なんだと思います。つまり、はまりつつそうなっている自分を客観化できる。そういう意味において、女性は複眼的に関係性を捉えている。だから、はまっている自分を戯画化できる。
 男性は、「Neo」のようにオフィシャル領域をパロディ化できるけれども、プライベート領域をパロディ化できない。女性は、その両方ができている。そうした訳で、男性が裏表を使い分ける女性を見ることを恐れるのは、自分が承認されるべきプライベート領域において、裏表があることを恐れるからかもしれませんね。
 こうした男女の違いはどこに由来するのでしょうか。この点については、いろいろと議論はあるでしょうが、ここでは次の文章を紹介することで良しとさせてください。

相手の欲望を想像することが関係の本質であり、その想像をやめられなくなる…(略)…そうなのだ。「他者の欲望を想像すること」から、人はリアルとヴァーチャルの双方に開かれた存在となる。女性が「ファンタジー」と「リアリズム」双方への、一見矛盾した親和性において男性を凌駕しうるのは、ひとえにこの想像力、つまり「関係性への才能」ゆえではないか。
斎藤環桐野夏生「リアル・ワールド」解説』)


なぜ、女性は「妄想」が大好きな存在であると同時に「リアリスト」であることができるのでしょうか。男性には見られないこの才能は、どこに由来しているのでしょうか。斎藤によれば、「他者の欲望」を想像(≒妄想)する能力が女性には長けているからということです。この能力にたけているがゆえに、女性は自分が巻き込まれている関係性を客観化、相対化できるというわけです。そうであるがゆえに、男性以上に「リアリスト」であることができる。

 このような女性的視点から生まれたコメディは、どのようなことを映し出しているのでしょうか。いうまでもなく、女性を取り巻く関係性であり女性がそれをどう見ているのかということです。さらにそうしたことを描くことによって、僕たちを取り巻いている規範・ルール、意図的に使っているルールが可視化されていると思います。もう少し本日の論旨に引きつけていえば、女性の振舞いかたの根底をなしている「あえてルールに従っている」ということが映し出されていると思います。これをいいかえると、『祝女』のなかに見られる女性は、どこかで「醒めている自分」という認識を持ち、本音と建前を使い分けている。さらにいえば、自分自身をパロディ化している。祝女は、このように自虐的に女性を描くことで、どんなドラマよりもリアルな女性性を表現できていると思います。
(まだ続く)

(もりやま)