先日、『ヌフ』さんのご協力をいただき、から大サロンをおこないました。そこで話した内容を、ここで改めて文章にしてみようと思います。暇があったら、ご笑読くださいませ。以下、当日のプレゼンの内容。何回かに分けて掲載予定。

では、「覚悟して」どうぞ。


寒いなか、ご来場いただきましてありがとうございます。今日プレゼンターを務めますもりやまといいます。よろしくお願いします。
まず今回の企画についてご説明させていだきます。最近哲学などの本が売れているといわれています。例えば、NHKでその講義が放送されていたサンデル教授の本なんかが、その典型でしょう。また、都会の方では、「哲学カフェ」といったような形で、身の回りにあることを、哲学的に思考してみようとする流れがあるようです。今回の企画も、そうした流れを意識しています。唐津でそうしたことはできないかな、というのが企画の意図です。
 自分自身は哲学を専攻したわけではありません。社会学という学問を専攻していました。だから今回、「哲学カフェ」というより「社会学カフェ」というのが正しいのだと思います。しかし、自分自身、あらゆる学問というのは、思考を深めていくという点においては変わりないと思っています。なので、あまり名前にはこだわってはいません。みなさんが僕の話を聞くなかで、こんなふうにも考えることができるんだなあと思っていただければ、今回の目的の一つを達成したと考えています。

 では、今日の内容についてお話します。今日は、「祝女」というNHKの番組について、論じてみようと思います。一応筋道立てて話しますが、基本的には、僕の思い込みを話します。それについて、客観性があるかどうかはわかりませんが、「祝女」をネタにして、女性のあり方を語ってみたいと思います。まあ、ぶっちゃけた話、「祝女」をテーマとして、思いっきり「詭弁を弄する」というのが妥当なところですが。その詭弁を楽しんでくれればいいなとも思っています。

では詭弁を弄する前に、みなさんに紹介したい言葉があります。

「交際の形式というものを尊重しながら、嘘を悪くいうひとは、たしかに流行の服を着てはいるものの、肌着を下に着ていないひとに似ている。」

「幸福だということは、恐怖なしに自分自身を認識しうることだ。」

これは、ワイマール期ドイツで活躍したヴォルター・ベンヤミンという哲学者の言葉です。彼はユダヤ人で、当然ナチスの迫害の対象となります。そのため、ヨーロッパから脱出しようとしたのですが、その途中で自殺してしまった悲劇的な哲学者です。それはさておき、これらの言葉は、はたして、なんのことをいっているのでしょうか。突然紹介されて、なんのことだかわからないと思いますが、今日の発表の中身と関連しています。発表を聞いた後に、これらの言葉がどのように解釈できるか、また改めて考えてみたいと思います。

今日お話しする内容ですが、以下の4つです。

1『祝女〜shukujo』のなにが面白いのかを語ってみる。
2『祝女』における女性の描かれ方に着目しながら、 現代の女性のありかたを語ってみる。
3「祝う」ということの意味
4 2,3について、すこし社会学的に論じてみる。

はじめにもいいましたが、今回お話しすることは、あくまでも自分の思い込みであり、詭弁ですので、リラックスして、まあ、話半分に聞いてください。
さて、具体的に話はいる前に、どのような人たちがこの番組を見ているのでしょうか。以下の図をご覧ください。


メリトクラシーというのは難しい言葉ですが、ここでは簡単にそれが高いというのは、スキルを必要とする専門職に就いている人たちと理解してください。
 この番組のメイン・ターゲットは、学生・新人社会人からキャリアを積んでいる独身の女性、そして、40代の既婚女性でしょう。後者は、「無限男子」のシリーズを楽しんで観ていると思います。放送時間を考えると、所謂「夜のお仕事」に就いている人は、対象となっていないでしょう。

では、祝女の面白さがどこにあるのかを考えてみたいと思います。
祝女のなかに、「種をまく」「宇佐美玲」「愛と生活の間に」というショート・コメディがあります。「種をまく」というコメディでは、女性が無意識に男性に対しておこなってしまうことを、冷静に客観的に描いています。また、「宇佐美玲」では、男性の女性に対する本音、女性の男性に対する本音を、けっこう冷めた目線でコミカルに描いています。「愛と生活との間に」では、女性が男性の女性に対する本音を知っていても、それでも男性に自分のことを理解してほしいということを、あるカップルの喧嘩を描くことで絶妙に描いています。
 女性がこうしたコメディを見ると、「リアル」と感じて「わかる、わかる」といいます。自分も数人に感想を聞いてみましたが、ほぼ口を揃えたように「わかる」といっていました。たしかに「リアル」なのですが、じゃあ本当にリアルかというと、そうでもない。現実的なことをいえば、例えば結婚ということを考えるとき、最終的に問題となってくるのは、家族観の関係であったり、経済的な問題であったり、宗教の問題であったりしますよね。祝女はたしかにリアルなんですけども、こうした問題は描いていない。まあ、これらをリアルに描いてしまうと、本当にシャレにならないからなんでしょうけど。しかし、そうした問題を描かないけれども、たしかにリアルであることには変わりない。このリアルさはどこに由来しているのでしょうか。
 先ほど例に挙げたコメディに共通しているのは、女性が男性との関係を女性がどのように考えているのかということ、そして女性は自分自身のことをけっこう冷めたところからみているということをではないでしょうか。コメディのリアルさは、ここに由来するように思います。一言でいえば、「他者との関係性」。この他者というのは、自分ではない誰かということで、男性ということだけを指すわけではありません。祝女の面白いところの一つは、恋愛関係のみを描いているのではなく、目上の女性との関係、友人関係、年下との関係を多角的に描いていることです。で、今回の発表で着目したいのは、こうした「他者との関係性」です。それに付けくわえていえば、女性はその関係性を冷静に見ることのできる視点を持っているということです。こうした複眼的な視点による産み出される、「関係性のリアリティ」であり、こうした関係性から生まれる「感情のリアリティ」、これらのことを問題にして扱ってみたいわけです。
 祝女の外面的な面白さについて、簡単に説明すれば、次のようになるでしょうか。つまり、20代〜40代までの幅広い女性を対象にしながら、女性特有のリアリティを形成している。そして、共感(同一化)する対象が、複数あることによって、女性のリアリティを多角的に描いている。そして、番組のホーム・ページにもあるように、女性の表と裏(建前と本音)が、見事に映像化されている。そうしたことが、女性が見てリアルに感じるところなのだと思います。
ここで深く考えてみたいのは、女性をかのように描く脚本、映像化、演出のあり方についてです。僕自身がすごく面白いと思うのは、それなんですね。問題なのは、「なんで、そのように描かれているのか?」 こうした問題意識から、祝女を読み解いていきたいわけです。さらに、そのようにして祝女を読み解きながら、女性たちが自分自身のこと、同性との関係、男性・恋愛をどのように捉えているのかということを考えてみたい。すこしいいかえると、女性が自分たちのことをどのように思っているのか、そして社会的規範・道徳といったものをどのように捉えているのか、そうしたことを考えてみたいということです。
 そうしたことを考えるうえで、祝女をなにかと比較することは、非常に有効でしょう。とりあえず、祝女と対照的な番組を考えてみましょう。なんでしょうか? 真っ先に思い浮かぶのは、「サラリーマン・Neo」でしょう。祝女とサラリーマン・Neoの作成チームは、同じのようです。たしかに見てみると、コメディ・テイストは同じですよね。もうちょっといえば、両番組にみられる、「自虐っぷり」はけっこう似ている。例えば、社会の建前をからかったり、それに否応なくしたがっている自分自身を嗤ったりしている。けれども、微妙な違いがある。僕は、そう思います。この違いはけっこう重大な違いだと考えています。これらの違いは、男女で自分自身をどのように考えるかの違いを、明確にしているのではないかなと思います。比喩的にいえば、「ええねん」(@ウルフルズ)と割り切る男と、自分を「祝福する」女との違いというように。
 よくいわれますけど、男性が女性のどうしたところにイライラするのかというと、女性が「落ち」のない話を微に入り細に入り延々話すことといわれます。それに対して、男性は論旨を明確に、ポイントを絞って話すことを好むといわれます。女性はディテールに拘り、男性は要点に拘る。いいかえると、女性はディテールにリアリティを感じて、男性は要点を押さえたところにリアリティを感じる。この違いは、祝女とNeoとの違いにも表れていると思います。というのは、Neoを見ればわかると思いますが、祝女と比べてある人間や場面の演出の仕方、いいかえるとデフォルメの仕方が、明白な意図を持ってかなりの程度おこなわれている。つまり、表現上での強調のため、現実をかなり加工して、現実ではありえないことをあえて描きながら、笑いを作っている。さらにいえば、Neoでは、会社的ルールに特徴的な部分を抜き取り、それを誇大に表現しながら、かつ自虐的にそれを描く。それに対して、祝女では、たしかにデフォルメがおこなわれているけれども、Neoほどではない。Neoとは反対に、祝女は関係性の中で取り交わされる会話を細かく描き、内面的な突っ込みを映像化することで、リアリティと同時に笑いを生みだしている。男女で描かれ方が違うということを押さえたうえで、次にいきましょう。(続く)(もりやま)