思うところあって、社会学者であるマックス・ヴェーバーの本を読み返す。
ヴェーバーの面白いところは、近代合理主義の帰結、分かりやすくいえば、人々が世の中をとても便利にしようと自分たちの制度を作り上げようとするとすると、結果的に自分自身が息苦しく生きなければならなくなる、ということをきちんと分析できているところにある。
簡単に図式化するとこうだ。

生活を便利にしようとする⇒便利にするためには、時間やコストの無駄を省く(合理化する)⇒そのためにルールが厳しくなる⇒さらに、ルールを守らせるためのわけのわからない別のルールができる⇒形式(合理性)だけをなぞるだけの、わけのわからない仕事が増える(形式主義)⇒いいようのない不満がたまる⇒(後は如何様にも想像せよ)

近代という社会は、規則を絶対に守らなければならないという「神経症的メンタリティ」を強制する。
ぼくたちは子どものころから「遅刻するな」「ルールを守れ」と何度もいわれてきた。
それは、なぜか?
いくつも理由が考えられるだろうか、ヴェーバー的な観点からいえば、ルールが守られなければコスト計算が狂うからだ。そこで無駄が生まれるからだ。
こうした世の中では、「豪放磊落」(意味は調べてね)という言葉は死語となってしまう。

やはり、古典は面白いです。

で、本題。

先日、福岡で「Art Open Cafe 2010」というイベントに参加した。
内容をざっくりと説明すれば、「ツィッターを使ってまちづくり」をしている人の話を聞きながら、そもそも「まち」とはなにか、「まちをつくる」とはどういうことか、ということを掘り下げていくというものである。
ツィッターを使ってのまちづくり」といっても、「ツイッターを使って」に強調点があるのではなく、「まちづくり」のほうに強調点があった。いいかえれば、「まち」の「本質」とはなにかを考えつつ、その「本質」にツィッターがどのように関わっているのかということが、議論の中心になっていたと思う。そのように話を聞いた。

以下、話を聞いて解釈したことを書く(多少曲解したところも含む)。
講師の山本さんの話で一番おもしろかったのは、「自分はこのまちに住んでいる」「いまこのまちにいる」「このまちがすきだ」そうした気持ちを「伝える」媒体としてツィッターがあり、ヴァーチャルな空間へつぶやくという行為自体が、情報の蓄積となり、それがある種の「場」を形成するのだということだ。
突き詰めていえば、気持ちを伝えるという行為が、場を生みだすということである。
山本さんの話しには、二つの局面があるように思う。

(1)“まちにやってきた人”のつぶやきをそのままタイムラインに乗せる
(2)“「まちづくり」をしようとしている人たち”のつぶやきをそのままタイムラインに乗せる


おそらく、ツィッターでまちづくりといった場合、ほとんどの人は(1)のみを頭に思い浮かべるのではないだろうか。自分も話を聞くまではそう思っていた。
山本さんの話を聞いて、死角を突かれたような感じがした。
(2)もまちづくりの一つであることは、まちがいない。

いろいろと話を聞いて、はっとしたのは、ツィッターというメディアでは、情報を発信する主体に編集権があるということだ。たしかにツィッターは、140字という制限が特殊な発話を生みだしているし、そしてよほどのことがない限りつぶやかれたものはそのまま情報の海に消え去っていくという、特殊な装置だ。
しかしそうした特殊性が、既成のメディアが持って離さない「編集権」を、発話(つぶやく)主体に与えているともいえる。
これは重要なことだと思う。

ディスカッションのなかでも議論になっていたけれども、山本さんがやっているようなツィッターの使いかたは、「ユーザー志向・お客様志向」ではない。
情報を受け取る側に沿ったかたちで、情報が加工されていない。
ある意味加工される前の生の情報が、無目的でランダムに流れていっている。
けれども、先にも述べたように、無目的なんだけれども、生の情報・気持ちを伝えようとすること、そうしたものの集積が、なにかを生みだす、生み出すきっかけとなっている。
あとから振り返ってみると、ただたんにつぶやいたことが「生成の場」を形成していたということになる。
そしてそれは原則的に開かれている。
こうした運動のなかで、参加している人たちが「コンテンツ」を作り上げているのだと、山本さんはいっている。

普通、ぼくたちの目に触れるものは、見られるような形でエディット、編集されて提出されている(この文章もそうだ)。
ぼくたちは、提出された情報が、どのように編集されているのかということは見れないし、分からない。
けれども、山本さんのやっているプロジェクトは、そうした過程がクリアとなっている。
さらに面白いのは、編集される以前の生なものが、集積していくなかで誰かの手によってではなく、自生的に自ずから編集されていくことだ。
ある意味生成する場をつくりながらその場にいるような自己生成的な運動に参加しているようなものだ。
こうした運動は、上から決められたフォーマットに従って「一応」自分たちで決めた目標を達成するという「自発性を装った」、現代的企業のなかであたりまえとなったシステム(要は、フランチャイズ式のシステムのことだ)とは、異なっていると思う。
近代的な目的合理的思考(ルールに従う思考)に縛られたリジッドな一元的システムでは、このような自己生成的な運動は、見えているけれども「見えない」盲点だ。

前ふりに使ったヴェーバーの話とつながりそうなところで、後編につづく(たぶん)。

(もりやま)