土曜日に「幕洗い」を見る。
どんなイベントなんだろうと思って橋の上で見ていたけれども、なんだ、幕を洗うのじゃなくて、ただの宴会なんだ。
そんななか、ちゃんと囃子が流れていた。
長い間、若人が演奏しているところを見ていたけれど、
なるほど、楽しそうだ。

よく見ると、センターによく来る小学生が太鼓をたたいている。
まるで別人。

笛、太鼓、鐘、掛け声が重なりあい、日本人らしいグルーヴ感を醸し出している。



いいな、これ。




太鼓をたたいている小学生を取り囲んでいた若人が、彼を「煽る」。
彼はそれに応ずる。
一段と激しくなった太鼓に、笛や鐘が応じる。
さらに若人が煽る。彼はちゃんとそれに応じる。以下同様。
見ていて興味深かったのは、煽りを終えるタイミングがほんとうに阿吽だったことだ。
音の緩急が、特定の誰かの意図ではなくその場の全体的な雰囲気で、いわばアドリヴで決められている。



いいな、気持ち良さそうだな。




多分自分が演奏しているという意識はあまり感じてないだろうなと思う。


どんなに盛り上がったライブよりも、くんちのほうが断然すごいという話を聞いたことがある。
分かるような気がした。

ライブの盛り上がりは、その日の客とパフォーマー創発するその場の一回きりのものだ。
単純には比較できないけども、くんちの盛り上がりは、演奏する人間の数ということも理由に上げられるが、やはり積み重ねられた「歴史・伝統」そうした「強度」を背景にしていると思う。

くんちの一体感にあり、音楽産業におけるライブの一体感にないのは、場所に根ざした時間・歴史的強度なんだろうと思う。

まちのなかの人は、そのような見えないなにかのなかにいるということを、感じているのではないかと思う。

そうした空気のなかで育った人間は、たぶんどんな状況においても自己肯定ができるのだろうと思う。常に誰かがいるんじゃないかという意識を抱きながら生きることができるのではないか。

くんちの囃子に身体を痺れさせながら、ぼんやりとそんなことを思った。(もりやま)