先日、「土曜夜市」の準備を手伝った。
商店街の人たちと、足組み、敷き板など「舞台セット」を商店街のなかから、台車を使って大手口まで運んだ。
舞台の素材を運び終わって、また商店街に戻ろうとすると、いい大人が「乗っていい?」とかいって、台車ではしゃいでいる。
ぼくがそれを不思議そうにみていると、商店街の人が説明してくれた。
彼らが説明してくれるには、車輪のある台車にロープがついていれば、それだけで、唐津の人間は、台車を曳く人間か台車に乗る人間かで、喧嘩するということだった。

なるほど。
「くんち」が身体に染み込んでいるんだなと思う。

ぼくにはそのような感覚は分からないし、共有することもできないけれども、なんかいいなと思う。
いま「くんち」が身体に染み込んでいると書いたけれども、それは正確な言いかたじゃないなとも思う。
言いかたを変えていえば、彼らのそのようなちょっとした振る舞いに、「くんち」に象徴的に表れている唐津の「文化」「人間関係」といったものの総体が、具象化されている。
ここで唐津の「文化」「人間関係」と簡単に書いているが、いまの自分にはそれらの「内実」をうまく表現することができない。
ただ、比喩的にしか言うことができない。

彼らの仕事ぶりを見て、そして彼らと一緒に汗を流しながらなんとなく感じることができたのは、彼らがともに「どのような時空間で、どのような呼吸をしてきたのか」ということである。そして、そうした呼吸の仕方は、ぼくにとって非常に異質なものだということである。
異質というのは、悪い意味で使っているのではない。ぼくがこれまで経験してきたものとは、まったく違っているということだ。けれどもこの違和感は、気持ちの悪いものではない。決してそうではない。
先に言った「文化」とか「人間関係」というのは、このような呼吸の仕方、共同作業における呼吸の合わせかたのことだ。
まちのなかで息をすることで、うまく表現できないけれど、町人文化の歴史、その重み、さらに「渋み」や「深み」に浴し、「満喫」するとはいわないまでも、それらに触れることができる。

呼吸が大事なのだ。

そんなことを思った。