地域と経済(活動)。今日、これらを別々に議論することはできない。これに異論のある人はいないだろう。
これについて、ちょっと考えてみた。
この点について、内山節(哲学者)さんの『共同体の基礎理論――自然と人間の基層から』(農文協)を読んだ。

この本の最後に次のような言葉があった。

自分たちの世界のなかに、”無事なお金の世界”をいかに創出するか。それは、お金が展開する場所をどのようにつくるかといってもいい。・・・場のあるお金をつくりだす。場というのは、ひとつは地域というものであるけれども、地域とは離れた、人々が結びついているという意味においての場でもいい。(p.257)


「場のあるお金」という言葉を聞いて、『北の国から』を思い出した。

うる覚えだが次のようなシーンがあったような気がする。

純が上京するとき、五郎が土のついた万札をトラックのドライバー(古尾谷雅人だったかな)に渡す。ドライバーは、車内で「これは受け取れない」といって純にそのお金を渡す。純はそれを泣きながら受け取る。純はそれを使わないと心に決める。
そして、純が東京から富良野に帰ってくるきっかけとなる事件が起きる。純の先輩がそのお金を盗み、純は激怒し、傷害事件を起こす。
 このとき覚えているのが、問い詰める純に対して先輩が答えた「金は金だろ!」というセリフ。
 そして、五郎が、なにがあったのかという質問に対して純が答えた「そいつが大事なものを取ったから」というセリフ。

ここでは、お金に対する対照的な態度が描かれている。
つまり、「金は金だろ」という匿名化された態度。
そして、純のような人称化された態度。

お金への態度、お金の本来的な機能としては、前者のほうが正しい。老若男女、その属性にかかわらず、一万円を持っている人は、市場では一万円を持っている人として扱われる。そこには人格は必要ない。「金は金」なのだ。

カール・マルクスは、貨幣のことを「誰とでも寝る娼婦」と表現した。
貨幣も一つの商品である。市場において商品と商品とを交換することはできない。
キュウリ2000本を持つ人がいて彼がipadを欲しがっているとすると、彼は市場のなかで、ipadをもちキュウリ2000本を欲しがっている人を探す必要がある。いまでもなく、そんな人間を探すのは困難だ。
そこで貨幣の登場である。
先に貨幣も一つの商品だと述べたが、どんな商品とも交換できる特別な商品なのだ。貨幣は、キュウリ2000本とも、ipadとも交換できる、特別な商品である。貨幣という特別な商品を介して、キュウリとipadは交換可能となる。(はたしてキュウリ2000本=ipadかどうか知らないけれど…)
こうした意味で貨幣は「娼婦」なのだ。
ともかくお金と、匿名性・交換可能性とは切っても切り離せない。

けれども、僕たちは純のようにお金にたいして何かしらの意味を持たせようとする。
お金を効率性のみで考えるならば、純は五郎からもらったお金を使ったはずである。
しかし「金は、ただの金ではない」。人称性と交換不可能性を、ぼくらはお金に担わせることもできる。


宮崎学(元ヤクザの文筆家)がいっていたが、「生き金」と「死に金」という二つの使い方がある。「生き金」というのは、損得を度外視し、人との関係、面子、義理を重んじ、それに対してお金を使うことである。それは、将来的な見返り、利益を考えた上のお金のやり取りではない。あくまでも人間関係、義理に対してお金をだすのだ。極道の世界において、そうした損得を度外視した経済が、結果的に彼らのセーフティーネットとして機能していた。(戦後そうした義理を重んじる風潮はなくなりはじめる。この点については、深作欣二仁義なき戦い』が示唆に富む。)

普通僕たちはお金について話すとき、「使いかた」について語る。お金にどのような意味を持たせるのかということを語ることはまれである。この場合意味とは、会計検査で使われるような妥当性や合理性・効率性ということではない。
純は、土のついた万札をどのように意味づけていたのか。
いうまでもなく、その数枚のお札は、故郷と純をつなぎ、五郎と純を結び付けているものである。
「場のあるお金」とは、こういうことなのだと思う。

中井 … 人と人との肌触り感、生きている感覚といったものを取り戻すことができれば、お金は必然的に便利な道具でしかなくなるでしょうし、人がお金の支配から脱却してゆくことも可能ではないかと思います。
吉沢 …命をつないでいくための知恵は、人と人とのつながり、コミュニティのなかにあると思っています。どのように命をつないでいくのか=どのようにコミュニティを再生していくのか。そして、そのためにお金をどのようにうまく使うのか。コミュニティビジネスやソーシャルビジネスを創出しつつ、いかに温かい相互扶助的なかたちでお金を回していくかという点を考えることが必要かと思います。(p.265)


費用対効果をとりあえず棚上げしたお金の使い方。「使いかた」よりも「意味づけ」を大事にする。その「意味づけ」に基づいた「使いかた」。
このような「お金に対する意味づけ」という論点において、先の本は非常に示唆に富むものだと思う。また、意味づけされたお金をどのように回していくのかということにおいても、重要な指摘がされていると思う。

と、こうしたことを書いたら、これは無駄遣いを正当化する論理だという批判があるのだろうけど。(もりやま)