朋友来唐

先日、沖縄から友人がやってきた。
沖縄からやってきたといっても、「うちなんちゅ」(沖縄人)ではなく、もとは気さくな関西人だ。
彼とはそんなに長い付き合いではないし、何度も会って話したわけではないのにもかかわらず、なぜだか昔からの知人のような気がしている。

そんな彼とまちなかの居酒屋で、互いの近況からはじまり、日本の歴史、普天間基地問題、そして沢田研二のセクシーさ、阿久悠の歌詞について語り合う。

その話のなかで興味深かったことが一つあった。
その友人は、唐津に来る前、門司で一泊し「レトロ地区」をぶらりと観てきた。彼は、門司のありようをほめていた。
彼が気に入った理由は、まちのありかたが「押しつけがましくないから」ということだった。
見せようとするものが、「見ろ!」と主張しているのではなく、さりげなく配置させているのが、とても良かったといっていた。

自分も門司にいったことがあり、同じことを思ったことがある。

日本と世界をつなげる港を歩きながら、一世紀前ここはどのような風景だったのだろうかとか、当時これらのレンガを積み上げた人たちはいったいどのようなことを考えていたのだろうかとか、いろいろと思いを馳せつつ、日本の近代化について考えた。いや、考えたというよりぼんやりといろいろ想像した。その想像には何の根拠もないのだけれども、想像すること自体にすこしわくわくした。

歩いていて、なにか楽しかった。そして心地よかった。

レトロ地区の施設の配置のありかたは、意図的かどうかわからないけれども、僕たちが思ったように感じさせるものとなっている。
まちを充実させ、完全なものにするのではなく、「なにかを欠けさせる」ことで、人の「知りたいという気持ち」を掻き立てるようにさせているのではないか、そのような話をした。

どうもお互い「過剰なもの」が嫌いなようである。

それで、ふと、あるマンガの「あとがき」のことを思いだした。

「音の無い部分も大切な音符なんです」

このように書き始められたあとがきで、そのマンガの作者は次のような言葉を綴っている。


田舎生まれの僕は小さい頃から
裏の畑やら田んぼやらやぶのなかやらで
一人遊びばかりしていた。

そこにはもちろん僕を遊ばせようと用意された空間ではない。
だから退屈などしたことがない。

やる気満々の娯楽施設に遊びに行っても
今ひとつつまらなくて
すぐに飽きてしまうのは
そんな育ちのせいだろう。

すき間を埋めつくされるのは
息苦しくて嫌いだ。

ぼくたちは、音と音との「(すき)間」に、なにかを聞く。
そのなには、きちんと説明はできないけれど、ちゃんとぼくらはそれを聞いているし、また、誰でもそれを聞き分けることのできる耳を持っていると思う。
別の言いかたをすれば、音が聞こえない部分を、自分たちそれぞれがそれぞれのやりかたで埋めているのだと思う。
この欠けたものを埋めようとする作業が、人が最も楽しいと思うことのひとつじゃないかと、僕は思う。

おそらく、ぼくたちが強く心惹かれるのは、音楽の休符のような、ものとものとの間にあるそのなにか(欠けたもの)であり、さらにそれを自分で積極的に埋めようとする作業がすごく楽しいと感じるのだと思う。(このことは、阿久悠の「作詞論」にも通じている。)

ぼくたちは思わず完璧さを求めてしまうけれども、完璧に作りすぎてもよくないのだ。そこにはすき間がないから。

完璧さとその「ほつれ」との塩梅は非常に難しい。けれども、なにかを作るというとき、こうした妙な人間の心の動きも考慮に入れておく必要があるのだなと思う。
意図的であるにせよ、意図的ではない(偶然である)にせよ、完璧さと「ほつれ」とのバランスが絶妙なものとなったとき、ぼくたちを惹きつけるなにかができあがるのだろう。

と、こんな暢気なことを書くと、いろいろと怒られそうだけれど。そこは、「勝手にしやがれ!」と放免していただきたい。(もりやま)